古典「源氏物語」を読む会

能「源氏物語ー葵」


能 楽 :「葵 上」          作 者 : 世 阿 弥 作    

素 材 :「源氏物語」葵の巻    場 所 : 京都左大臣邸・葵上の病室

登場人物  

  前シテ……六条御息所の生霊 (面ー泥眼)(装束:紅入唐織ー壺折・黒地縫箔ー腹巻)

  後シテ……六条御息所の生霊 (面ー般若)(装束:黒地縫箔ー腹巻)

  ツ レ……照日の巫女 (面ー小面)(装束:白水衣・紅入唐織)

  ワ キ……行 者・横川の小聖 (装束:兜布・篠懸・水衣・白大口)

  ワキツレ……廷 臣 (装束:洞烏帽子・袷狩衣・白大口)

  ア イ……左大臣の下人 (装束:長袴)

出小袖」……葵上は登場せず、代わりに舞台に折り畳んだ小袖を置いて、病に臥せる葵上を表わす

     


     あ ら す じ

 朱雀院に仕える臣下が登場する。左大臣の娘・光源氏の北の方(正妻)葵上が、物の怪に取り憑かれ臥せっている。貴僧高僧による加持祈祷をしても一向に回復しないので、梓弓によって霊を呼びよせる呪術を持つ照日の巫女に命じ、物の怪の正体を占わせた。すると梓弓の音に引かれて、源氏の愛を失い悲しみの六条御息所の生霊が、破れ車に乗って現れる。昔、賀茂の祭見物の折、葵上の家来と御車の所争いになり、侮辱されたその怨みを晴らさんと、枕元で葵上を打ち責めさいなみ、幽界へ連れ去ろうとする。
 急いで横川の小聖を呼び、怨霊を追い払おうと祈祷を始めるが、鬼女の姿になった六条御息所は激しく争う。けれども御息所は法力に祈り伏せられ、読経する声に心和らげ、浅ましいわが姿を恥じて、ついには成仏する。



謡 曲 「葵 上」 詞 章


現代語訳


ワキツレ「是は朱雀院につかへ奉る臣下なり。

さても左大臣のおん息女。・葵上の御物の気

以ての外に御座候程に

貴僧高僧を請じ申され

大法秘法医療さまざまの

おん事にて候へども 更にその験なし

ここに照日の神子とて・隠なき・梓の上手の候ふを召して

生霊死霊の間{を


私は朱雀院に仕え申し上げる臣下です。

さて左大臣のご息女・葵上に取り憑いた

物怪が大層執念深いものですから、

貴い立派な僧にお願いして、

様々な祈祷や医療を施したのですが、

一向に快報の兆しもありません。

照日の巫女という梓弓で霊を呼ぶのが上手な霊媒師を招き

憑き物が生霊なのか、死霊なのか


梓に掛けさせ申さばやと存じ候

やがて梓に御かけ候へ

ツレ「天清浄}地清浄 

内外清浄六根清浄

より人は今ぞ寄りくる長浜の芦毛{あしげ}の駒に手綱ゆりかけ 

三つの車にのりの道 火宅の門をや出でぬらん。

夕顔の宿の破車

やる方なきこそ悲しけれ

次第「浮世は牛の小車の /\

廻るや報なるらん


梓弓で占わせようと思っています。

(照日の巫女殿)早く梓弓におかけ下さい。

天清浄地清浄

内外清浄六根清浄

世のひとびとは仏の方便に導かれ、苦しみから逃

れるといいます。

源氏の君が夕顔の家にお通いになられて心乱れ、

心慰める術がないのは悲しいものです。

憂き世の苦しみは牛車の車輪と同じ、

因果応報、これも前世の報いだろうか。


サシ「およそ輪廻は車の輪の如く

六趣四生を出でやらず

人間の不定芭蕉泡沫の世の習

昨日の花は今日の夢と

驚かぬこそ愚なれ。

身の憂きに人の恨のなほ添ひて

忘れもやらぬ我が思い

せめてや暫し慰むと

梓}の弓に怨霊のこれまで現れ出でたるなり。

下歌「あら恥かしや今とても


およそ輪廻は車の輪のごとく、

六道四生の苦界を離れることはない。

人間の一生は、芭蕉の葉の水泡のように儚く

昨日の花も今日は夢のごとく散ってしまう。

それに気付かぬとは何と愚かなことだろう。

この身の辛さに、人の恨みまで加わって、

忘れることもできないわが思い。

せめて、ほんの暫くの心の慰めにと、

梓弓の音色に惹かれ、ここに現れ出たのだ。

あぁ、なんと恥ずかしいことだろう。


忍車のわが姿。

月をば眺め明かすとも /\

月には見えじかげろふの

梓の弓のうらはずに

立ち寄り憂きを語らん

シテ「梓の弓の音は何くぞ /\

ツレ「東屋の母屋の・妻戸に居たれども

シテ「姿なければ訪ふ人もなし

不思議やな誰とも見えぬ・上臈の

破車に召されたるに青女房と思しき人の


車争いの時と同じ忍び車の姿ではないか。

どれほど月を眺めて夜を明かしても

月には見えない陽炎のようなものだから、

せめて梓弓の側まで

立ち寄って胸の辛さを語ろう。

梓弓の音がするのはどこか。

あずまやの母屋の戸口に立っているが、

姿が見えないので、問う人もいない。

不思議なこと、誰か分からぬ高貴な女性が、

破れ車に乗っているお付きと思われる人が、


牛もなき車の轅に取りつき

さめざめと泣き給ふ痛はしさよ。

若しかやうの人にてもや候ふらん

ワキツレ「大方は推量申して候

唯つゝまず名をおん名乗り候へ。

シテ「それ娑婆電光の境には

恨むべき人もなく

悲しむべき身もあらざるに

いつさて浮かれ初めつらん

唯今梓の弓の音に引かれて


牛も付けていない車の轅に取り付いて、

さめざめ泣いておられる痛わしさよ。

もしや物怪はこのような人ではありませんか。

およそ推量いたしました。

ただ包み隠さず御名前をなのって下さい。

夢のように儚いこの世では、

恨むべき人もなく、

悲しむべき身の上でもないはずなのに、

どうしておめおめと出て来たのだろう。

唯、今の梓弓の音色に引かれて、


現れ出でたるをば

如何なる者とか思し召す

是は六条の・御息所の怨霊なり

われ世に在りしいにしへは。

雲上の花の宴

春の朝の・御遊に馴れ

仙洞の紅葉の秋の夜は

月に戯れ色香に染み

はなやかなりし身なれども

衰へぬれば朝顔の


現れ出でた私を、

いかなる者とお思いでしょう。

私は六条御息所の怨霊でございます。

私が生きていた昔には、

宮中の花の宴で、

春の朝の催しに興じたり、

紅葉に染まった秋の夜は、、

月を眺めたり色香を愛でたりと、

華やかな身であったけれど、

威勢が衰えてしまった今、朝顔のように、


日影待つ間の有様なり。

唯いつとなき我が心

もの憂き野辺の早蕨の萌え出でそめし思の露。

斯かる恨を晴らさんとて これまで現れ出でたるなり

地下歌「思ひ知らずや世の中の

情は人のためならず

上歌「我人のためつらければ /\

必ず身にも報ふなり

何を歎くぞ葛の葉の

恨はさらに尽きすまじ


日陰を待つような儚い身になってしまいました。

唯、いつの間にか自分の心に、

野辺の早蕨の萌え出でる露のように、

この恨みを晴らそうと、ここに現れ出たのです。

お分かりでしょうか。世の中の、

情けは人の為ならず。

私が辛い思いをしているからには、

そのひとにも、必ず報いがくるでしょう。

その人がどんなに嘆き悲しむことがあっても、

私の恨みは、決して消えないのです。


シテ「あら恨めしや

詞「今は打たでは叶ひ候ふまじ

ツレ「あら浅ましや六条の御息所程の御身にて

うはなり打ちのおん振舞

いかでさる事の候ふべき

唯思し召し止り給へ

シテ詞「いや如何に云ふとも

今は打たでは叶ふまじと 

枕に立ち寄りちやうと打てば


あぁ、恨めしい。

今この葵上を打たずに済まされません。

あぁ、何と浅ましい。六条御息所ともあろうお方が、

うわなり打ちとは何たるお振舞い、

そんなことをしてよいはずがありません。

ただ、自重してください。

いや、なんと思おうとも、

今は打たずにおられません。

葵上の枕元に立ち寄って、えいと打てば、

ツレ「この上はとて立ち寄りて

わらははあと}にて苦くを見する

シテ「今の恨は有りし報い

ツレ「嗔恚}のほむらは

シテ「身を焦がす。

おもひ知らずや。

シテ「思ひ知れ

「恨めしの心や。あら恨めしの心や。

人の恨の深くして


この期に及んで、六条御息所の側に立ち寄って、

後で私が罪を与えます。

今のこの恨みは、過去に私が受けた苦しみ。

なのに恨みの炎は 

我が身を焦がす。

まだ分からないのですか。

思い知りなさい。

恨めしい心よ。あぁ、何と恨めしい心よ。

私のこの深い恨みで、


憂き音に泣かせ給ふとも

生きて此世にましまさば

水闇き沢辺の蛍の影よりも

光る君とぞ契らん

シテ「わらはは・蓬生の

地「本あらざりし身となりて

葉末の露と消えもせば

それさへ殊に恨めしや

夢にだにかへらぬものをわが・契{ちぎり}

昔語になりぬれば


たとえ葵の上を泣かせたとしても、

生きてこの世にいらっしゃる限り、

水暗き沢辺の蛍の影よりも 

光る君との契りるでしょう。

(それにひきかえ)この私は蓬生のように、

(源氏の君と)他人同様の関係となり、

葉末の露のように儚く死ぬかと思うと、

より一層、恨みは増します。

(源氏の君とは)夢でさえ私は契ることのない

昔の物語になってしまいました。

なほも思は真澄鏡。その面影も恥かしや

枕に立てる破車

うち乗せ隠れ行かうよう

ワキツレ詞「いかに誰かある 葵上のおん物怪

いよいよ以ての外に御座候ふ程に

横川の小聖を・請じて来り候へ。

狂言シカシカ

ワキ「九識の窓の前


なおさら想いは募るのです。その自分の姿が恥ずかしい

せめて枕元に用意した乱れ車に

葵上を乗せ(死の世界へ)連れ去ってしまおう。

誰かおるか。葵の上の御物怪が

ますます酷いので、

横川の小聖のところへ参り、

加持祈祷においで下さいと申し伝えなさい

しかじか……

九識の窓に思いを静め、


十乗の床のほとりに

瑜伽の法水をたゝへ 三密の月を澄ます所に

案内申さんとは如何なる者ぞ。

狂言シカシカ

ワキ「別行の子細候へども

大臣よりと承り候間参らうずぞ

夜陰と申しご参めでとう候

別行の子細候えども

大臣よりと承り候間参じて候

さて病者は何くに御座候ふぞ


十乗の観法を行い、

身も心も崇高な状態に保っている私に

案内を頼むのは、誰だ。

しかじか……

特別の法事があって忙しく、

どこにも出かけずにおりますが、

大臣よりの御使者であれば、参ろう。

この今、ご足労頂き有り難うございます。

さてご病人はどちらにおられるのか。


ワキツレ「あれなる大床に御座候

ワキ「これはもってのほかの邪気と見えて候

やがて急ぎおん加持加持あってたまわり候え

ワキ「行者は加持に参らんと

役の行者の跡を継ぎ

胎金両部の峯を分け

七宝の露を払ひし篠懸に

「不浄を隔つる忍辱の袈裟


あちらの大広間におります。

これは大層重篤に見えますので、

すぐに加持祈祷を始めましょう。

急いで加持祈祷をお願いいたします。

行者は加持祈祷に入るため、役の行者の跡を追って、

吉野の大峰を分け、

七宝の露しのぎに着ていた篠懸と

汚れを祓う袈裟を身にまとい、


赤木の珠数のいらたかを

さらり/\と押しもんで

一祈こそ祈つたれ

イノリ、シテ「如何に行者早帰り給へ

帰らで不覚し給ふなよ

ワキ「たとひ如何なる悪霊なりとも

行者の法力尽くべきかと

重ねて珠数を押しもんで

「東方に降三世明王

シテ「南方軍荼利夜叉


赤木の刺高の数珠を

さらりさらりと押しもんで、

一祈り、祈ったのだった。

これ行者早く立ち去りなさい。

帰らなと後悔なさいますよ。

たとえどんな悪霊であろうとも、

この行者の法力が負けるものかと、

重ねて、数珠を押しもんで、

東方に降三世明王

南方には軍茶利夜叉


「西方大威徳明王

シテ「北方金剛地「夜叉明王

シテ「中央大聖地「不動明王

なまくさまんだばさらだ

せんだまかろしやな

そはたやうんたらたかんまん

聴我説者得大智慧

知我身者即身成仏


西方には大威徳明王

北方には金剛 夜叉明王 

中央大聖 不動明王

なまくさまんだばさらだ

せんだまかろしやな

そわたやうんたらたかんまん

我が説を聴く者は大知恵を得ん

我が心を知る者は即身成仏とならん

                   


シテ「あら/\恐ろしの般若声や

これまでぞ怨霊

この後又も来るまじ

読誦の声を聞く時は

悪鬼心を和らげ 忍辱慈悲の姿にて

菩薩もここに来迎す

成仏得脱の身となり行くぞ

有難き/\


あぁ、何と恐ろしい般若の声

これまでだ怨霊。

この後、二度と現れるでない。

読経の声を聞くときは、

物怪は心をやわらげ、忍辱慈悲の姿になり、

まるで菩薩がここに現れたようだ。

苦悶を逃れ、成仏の身になりゆく事こそ

誠にありがたい……。

参考資料: 「能楽の杜」  .

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